講評


小粒の塩を山盛りとすることで、小と大のシナジーが生まれている。
「塩を撒く」というよりは、「塩を撒こう」もしくは「塩を撒いてみたい」
という欲求が的確に表現されている。
このような手法は、1950年代ヘンリー・クリントンの作品「撒いたらどうなるかな?」の発表により
「塩を撒く」界を席巻した。所謂「撒きたい派」の台頭である。
 
しかし、現代「塩を撒く」界において、この手法は既に陳腐化しており
なぜあえて今、この手法を取り入れたのか、作者の意見を聞いてみたいと私は思う。
 



地球温暖化により、海面上昇が懸念される昨今、
海の塩分濃度を少しでも保持しようという作者の意気込みが感じられる。
このような社会的、もしくは地球規模の問題に対して
真っ向から立ち向かうその精神は、まさに現代の「塩を撒く」にふさわしい。
 


実に古典的な手法によって塩が撒かれている。
が、その対象がトマト、または何も存在しない場所
つまり、新古典派の流れを汲む作品であろう。
「塩を撒く」という行為を忠実に表現しており
個人的には、この作品に好感を持つが
やはり、なぜいまこの手法なのかという疑問がよぎる。
 

知られたくはない秘密を知られてしまう
よりにもよって両親にだ。
それをさりげなく伝えられた作者の心の澱みが
ひしひしと伝わってくる。
この作品には、一切塩が登場にしていない。
一見、これが「塩を撒く」なのか?と
戸惑うであろう。
しかし、これはまさに
「塩を撒かざるを得ない」しかし「撒くわけにはいかない」
という葛藤を表現している。
まったく新しい「塩を撒く」の表現であろう。
しかし、私はこの作品を評価しない。
なぜなら、「塩を撒く」とは技術に裏づけされたものでなければならず
この作品を「塩を撒く」とするならば、あらゆる作品が
「塩を撒く」と解釈できてしまうからだ。